徐悲鴻(ジョ・ヒコウ)は、中国近代美術および美術教育の礎を築いた人物であり、卓越した芸術家、教育者、そして収集家として、中国美術の改革と発展に多大なる貢献を果たしました。彼は20世紀中国美術の先駆者であり、その功績は後世に伝わり、深遠な影響を与え続けている芸術の巨匠です。
2025年は徐悲鴻の生誕130周年にあたります。その芸術人生を偲び、その業績を振り返り、芸術の真髄に触れることを目的として、特別企画展「徐悲鴻生誕130周年記念―軌跡の回顧展 中国近代美術の旗――徐悲鴻絵画展」を開催いたします。本展は日本を皮切りに、今後フランス、ドイツ、ハンガリー、シンガポールへと巡回予定です。
1917年5月、22歳の徐悲鴻は妻の蒋碧微とともに日本へ渡り、留学生活を開始しました。彼は康有為が日本の書画家・碑帖収集家である中村不折に宛てた紹介状を携えており、それをきっかけに中村との交流が始まりました。両者はその後も何度か会談を重ね、徐悲鴻は同年11月に帰国するまでの間、多くの知見を得ることになります。
滞日期間、特に中村不折との交流から徐悲鴻は多大な影響を受けました。その影響は、彼が1918年5月に北京大学で発表した「中国画改良之方法(中国画の改良の方法)」という論文の中にも見て取れます。その中で彼は「古法之佳者守之、垂絶者継之、不佳者改之、未足者増之、西方画之可采入者融之(古法の良きものは守り、絶えかけたものは継ぎ、良くないものは改め、不足するものは加え、西洋画から採り入れるべきものは融合する)」と述べ、いわゆる「五つの之」として中国画改良の方針を明確にしました。この「改良」の理念こそが徐悲鴻の生涯を貫く中心思想であり、彼の全ての行動と発言はこの理想に基づいています。西洋絵画の要素を取り入れるためにフランスへ留学し、「改良」の理論的枠組みを築くために画史を再評価し、改良を担う人材を育成するために美術教育に力を注ぎ、その成果を示すために多くの作品を創作する――これらすべてが彼の「改良」に対する情熱の表れです。このように、短期間であっても日本への留学は若き徐悲鴻にとって極めて重要な意義を持ちました。そして、まさにその意味において、本展の初回開催地として日本が選ばれたのです。
徐悲鴻の自画像
展示作品
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